可哀想、助けてあげたい
おはようございます。公認心理師・ビリーフチェンジ心理セラピストの宮﨑くみこです。
前回【何でもしてあげたくなる】という内容のブログを書きましたが
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そのことについて。もう少し心理的に、そして私達が関わっている【馬について】も深く考えてみたいと思います。
もくじ
1-1|助けてあげたいの奥にある心
誰かが苦しんでいる姿を見ると【可哀そう】【助けてあげたい】と思う。その気持ちはとても人間的で、温かい反応なのかもしれません。

しかし、その優しさが強くなり過ぎると【自己犠牲】や【共依存】という形で自分をすり減らしてしまうことがあります。
そしてその奥には、心理的に見ると【無意識の心の構造】が関係していることもあります。
1-2|その下に潜む無意識
【助けてあげたい】という言葉の中には、無意識のうちに【上下の関係】が含まれています。心理学的に見ると、この構造は【救済者コンプレックス】とも呼ばれます。
それは【相手は弱く、自分は強い】のような【心の前提】。【相手は可哀そうな人。自分が何とかしてあげなければ】という構図です。
心理学的に、こうした状態では【共感】と【同一化】が交じり合っている場合もあるそうです。
相手の痛みを自分のフィルターで想像して感じるうちに【相手の苦しみ=自分の苦しみ】と感じ、その苦しみを消すことで【自分も安心しようとする】

つまり【助けてあげたい】という衝動は一見【相手のため】に見えて、実は【自分の痛みを避けるため】【本当に助けて欲しいのは自分】かもしれません。
1-3|自己無価値観
その背景には、幼少期に備わった【ビリーフ(思い込み・信念・価値観)】が関係していることも少なくありません。
| ・人の役に立たなければ愛されない
・困っている人を放っておくのは冷たいこと ・人を支えることが優しさ |
このような信念や思い込み、価値観(ビリーフ)を持っていると、誰かの苦しみを見た時に【助けてあげなきゃ】と感じてしまいます。
しかし、そこには【相手の力を信じて見守る】という選択肢が抜け落ちています。
なぜなら、その人の力を信じるよりも【自分が役立つこと】を通じて「安心したい」「嬉しい」という欲求が働いているからです。

【助けてあげたい】【可哀そうに】という言葉を使う時、私達は【助ける側】と【助けられる側】という立場を無意識ながら作り出しています。
そうして【助ける側】に立つことで、自分の存在価値を感じたり、相手の弱さや辛さを埋めてあげることで、自分が満足したり安心したりします。
つまり【助けてあげる】は、相手の力を信じるよりも【不足を補う】ことに焦点がある関りなんですね。こうした心の構造は【依存的な関係】を生みやすくします。

1-4|かつての自分
【助けたい】【可哀そう】という気持ちは、時に【投影】から生まれます。私達は相手の中に【かつての自分】や【自分の弱さ】を見出すことがあります。
| ・かつて【助けて欲しかった自分】
・誰にも理解されなかった寂しさ ・無力だった自分 |

等、それらを相手に重ね【この人だけは助けたい・何とかしてあげたい】と、思う時、私達は実は【過去の自分を救おうとしている】んですね。
だから、相手を助けた時は、物凄く幸福感にも似たような感覚を味わい、更にまた、相手ができていない、困っていることに目が行っては【やっぱり私が助けなきゃ】と、
助けても、助けても、その行為は繰り返されます。なぜなら、そこにはまだ癒されていない自分自身が、そこにいるからです。
1-5|助ける。から共に在る。へ
哲学者マルティン・ブーバーは、人間関係を【我ー汝(I-Thou)】と【我-それ(I-It)】の2つの在り方で説明しました。
相手を【助ける対象】として見るとき、私達は無意識に【我‐それ】の関係を築いています。相手を【できない存在】として扱い、自分が【してあげる側】に立つ。
けれど【我-汝】の関係では、
相手を【尊厳ある一人の人間】として【ただ、共に在る】。そこに上下も、支配も、同情もありません。
【助けてあげる】を超えて【あなたの人生を信じて見守る】。それが本当の【尊厳】であり【成熟した関り】だと言われています。

私達夫婦が師事している、ビリーフチェンジの棚田先生も、出版された本の中でこう書かれています。
| 【運命の法則】
誰もが皆、自分の運命を背負うことができる。そして、自分自身の運命しか背負うことはできない。
気を付けなければ、ならないのは、悩みや問題を抱えた人を見ると、容易に【かわいそうだ】【私が助けなければ】と思ってしまう傾向の人です。
一見すると優しい良い人であるように感じられますが、実のところ、そうした人物は問題を抱えた人を見ると、
無意識に相手を自分より下の立場に置いてしまうことから、そう思うのであり、その謙虚さを忘れた尊大な態度が他者の尊厳や能力を奪っていることに無自覚です。
誤解のないように申し上げると【運命の法則】は「問題を抱えて困難な状況にある人を助けてはいけない」「子どもが親を助けるべきではない」と主張するものではありません。
年老いた病気の親の世話をする際に、親を自分より下に置いて「かわいそうな人」と思いながら接するのか?
自分に命を与え育ててくれた偉大な存在として敬意を持って接するのか?そこには【本質的な違い】が存在します。
著書:【トラウマは遺伝する】 著者:棚田克彦 から一部抜粋
購入はコチラから→【トラウマは遺伝する】 |
私達夫婦が棚田先生から学んだことは、大切な心の在り方。

ビリーチェンジin唐津②の時
そして、心の在り方として【貢献】ということを学びました。
1-6|貢献とは
【貢献】とは、相手を【自分と同じように「尊厳」ある存在】として見て、その人や社会がよりよく生きていくために【自分ができる範囲のことを差し出すこと】
心理的な特徴として
| ・一見辛く苦しい状況に見えても相手の力や可能性を信じている
・自分の価値は「誰かを助けること」に依存していない ・行動の動機が【欠乏】ではなく【満ちているところからのシェア】 |
例えば、水を求める人にコップ1杯の水を渡す時【助けてあげる】は「可哀そう」だから。ですが【貢献】は【水があるから分かち合おう】という自然な行為です。

【助ける】は相手を「対象化」しやすい行動だけど【貢献】は【共に世界をつくる】行為です。
哲学者のマルティン・ブーバーの言う【我‐汝】の関係では、相手を【助ける対象】ではなく【共に生きる存在】として【向き合うこと】が重視されます。
【心の貢献】とは【自分が相手の人生を変えよう】とすることでは無く【相手が自分の人生を生きることを信じて見守る】こと。という静かな【信頼】があります。
一見、辛く苦しい状況だったとしても、それを乗り越えるためのチャンス、相手の成長を邪魔せず、コントロールせず
【自分が何かをしてあげなければ】という焦りを手放して、ただ、その人の生命の力を信じる深い愛。

それは【相手を信じて手放す「勇気」】と【何もしないことを選べる「成熟」】そして【相手の可能性を喜ぶ「余白」】から生まれるような気がします。
1-7|乗馬の世界からも見える状況
最近日本の乗馬界では、引退した競走馬をリトレーニングし、再び活躍できるよう支援する活動が広がっています。
それは本当に素晴らしい取り組みであり、馬達の可能性を広げる大切な試みだと私も感じています。

しかし、一方で【競馬という世界そのものが悪い】【馬を使い捨てている】と、競馬界を批判する声も少なくありません。
その背景には【可哀そう】【救ってあげたい】という感情があるのかもしれません。だけど、それは自然なことでもあるかもしれませんが、
もしも自分で解決していない、抱えきれない感情が強くなり過ぎているとしたら、

矛先を【競馬界】に向け、不満や批判を繰り返す…。そこには【助けてあげる】という優しさに見えた【隠れた上下関係】が見え隠れします。
つまり、馬を【可哀そうな存在】として下に置き【救う自分を上に置く】という心の在り方の構造です。

競馬はもともと「馬産振興」を目的としており、その売り上げの一部は「馬の生産・飼育環境の整備」「家畜衛生や獣医研究」「農村地域の活性化」等に使われたり、
「障がい者スポーツ大会の支援」「青少年育成活動」「災害復興支援」等にも助成金が出されていたり、
地方競馬になると、地域住民の為に使われ「学校や公園など公共施設の整備」「高齢者や子育て支援」「災害時の復旧支援」「地域イベントや観光振興」など、
社会に還元されている側面も多くあり、自覚はなくとも、私達はどこかでその恩恵を受けています。
又、そこに関わる人々も懸命に生きていて、その方達の人生、生き方があります。
そして、競馬の世界に生まれた馬達は人間社会のその仕組みの中に生まれ、その環境の中で懸命に生きてきた存在です。

【可哀想】という感情が強すぎると、馬自身の【生まれてきた運命】や【その「生」の意味】を尊重できなくなることがあります。
【あなた(競争馬)の生き方は間違っている、良くない】【こう生きた方が幸せだ】というのは【人間の価値の押し付け】であり結果的に【馬の尊厳を奪ってしまうこと】になります。
真の尊重とは【その存在の「選べない現実」も含めてまるごと受け止める】こと。そして【あなたの道を、あなたらしく生きる力がある】と信じること
だと私は思います。
人だから、馬だから、牛だから、鶏だから、と、それぞれの命の重さは同じなのに、人は自分の立場や都合で様々な理由をつけて、同じ命の重みを【ジャッジ】します。

しかし、人も、馬も、牛も、鶏も、同じです。その存在の力、生命の意志、与えられた環境を信じる。
そこに【人が上で、馬が下】【馬が上で牛は下】等の構造はありません。
在るのは【ただ、共にこの世界を生きている】という静かな対等さです。

1-8|ポニーふれ合い教室(命の授業)
私達は、ポニーと共に学校訪問をしています。その中で【草食動物を狙う肉食動物は悪い奴だなぁーと思う人!】と尋ねると、殆どの子ども達は【悪い!悪い!】といって手をあげます。

ライオンに襲われる馬の絵かな?
だけど、その後『じゃぁ又質問するよ?』『ハンバーグ好きな人!』「はーい!」『唐揚げ好きな人!』「はーい!」
『あれれ?だとしたら皆もお肉を食べるから、ライオン達と一緒だよね?それなら皆も悪い子かな?』
と、尋ねると子ども達は考えます。「いや!悪い子じゃないよ!」『だったら何のために食べる?』「大きくなるため!」「生きるため!」という言葉が帰ってきます。

『そうだね。じゃぁライオンも悪い訳ではないよね?では、皆ご飯を食べる前に手を合わせて何て言う?』【いただきます!】
『その”いただきます”は生きていた牛や鶏たちの命を”いただきます”という意味だから、命に感謝して、出してもらった食べ物は残さずに綺麗に食べてあげてくださいね』
と、伝えると、子ども達は【はい!俺絶対残さんようにしよう!】など、口々に言ってくれます。
その環境に生まれた牛や鶏の生き方、人生を尊重する。とは、このような心の在り方ではないか?と、私は感じています。

1-9|自分の目の前のことに力を注ぐ
【助けてあげたい】という気持ちは、人の中にある温かな優しさの証です。けれど、その優しさが無意識ながらも【相手を下に見る】構造の上に成り立っていないか?を、一度立ち止まって見つめることも大切です。
馬に対しても、人に対しても、私達ができる最も深い優しさは【信じること】。そして【その存在のまま生きる力】を【尊重する】こと。

可哀想だから助けるのではなく【あなたの生をそのまま信じています】。その静かな祈りのような在り方こそが【真の貢献】であり、人としての成熟した優しさなのかもしれません。
なので、私達ができることは【今フォーシーランチで出逢った馬達】に対して【自分達ができることを、真摯に向き合うこと】だと感じています。

最後に。
棚田先生のように、誤解がないようにお伝えすると「競馬の馬をリトレーニングしてはいけない」と主張するものでは決してありません。
人間社会に生まれた運命の馬に対して、自分よりも下に置いて【かわいそう】と思いながら接するのか?
それとも、自分達が生きる社会に貢献してくれている偉大な存在として、敬意を持って接するのか?
そこに本質的な違いが存在するのではないか?と、私達は思います。(棚田先生の文章を引用)
では、又月曜日に♪
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