【私たちの物語】
若くして結婚し、4人の息子にも恵まれて、2人の地元・唐津でウエスタンスタイルの乗馬クラブ「4C-RANCH」を始めた私たち。
何も知らない人の目には、「充実した人生」とか「幸せな家族」に見えるかもしれません。でも、本当の私たちはそんなイメージとはほど遠く、道なき道を迷いながら手探りで進むような人生を送ってきました。
お金もなく、仕事も子育てもうまくいかず、次々と病気をして、夫婦げんかもたびたび・・・
「何やってんだろう・・・」
「このまま人生が終わるのかな・・・」
「消えてしまいたい・・・」
そんなことばかりを思う毎日でした。
けれども、今の私たちは時にはけんかもするけど、夫婦が仲よしで、子どもたちや孫たち、大好きな仲間に囲まれ、仕事でも人に喜んでもらい、「あなたに出逢えてよかった」と言ってもらえる。そんな幸せで満ち足りた日々を送っています。(今でも日々色々な事は起こるけど、それも自分だと受け入れる事ができるようになりました)
問題だらけだと思っていた私たちが、なぜ、幸せな毎日を手に入れることができたのか、少し長くなりますが、よかったら「私たちの物語」にお付き合いください。
「ウエスタン乗馬クラブ 4C-RANCH」主宰 宮崎一也 くみこ
~劣等感と体調不良に悩まされた少年時代(一也のこと)~
僕(一也)は1977年、宮崎家の三兄弟の末っ子として唐津で生まれました。物心つく頃から、家に母がいない日がたびたびあり、それは幼い僕の心と体をとても不安定にしたのでしょう。しょっちゅうお腹を壊すようになりました。
実はその頃、母は精神的な病気をわずらっていて、入退院を繰り返していたのですが、幼い僕にはそんなことはわかりません。小学校に上がってからも母の不在は続き、父や兄たちが先に出かけてしまうと、僕はそのままぐずぐずと家に残って、学校へ行かない日が続くようになりました。足し算や引き算もできず、掛け算の九々もまともに覚えないまま進級したので、ますます学校嫌いに。そして小学5年生の時、家の事情で引っ越し、転校を余儀なくさせられ、心理的には人に合わせて【生きるためだけに】必死でした。高校に行く気もなく、中学卒業後はとりあえずガソリンスタンドに勤めたものの、長くは続かず、いくつもの職を転々としていました。
僕は接客が何より苦手だったので、仕事は肉体労働ばかり。「自分は頭が悪い」と思っていた僕は、知らない人を前にすると激しく緊張してしまい、「相手の言ってることが理解できない」「何か言いたくても言葉が出ない」という状態になっていたのです。それは激しいコンプレックスとなって僕を苦しめ続けました。その頃は夜な夜な地元の仲間とつるんで遊び回っていて、ただ「毎日を何気なく生きている」そんな生き方だったように思います。
そして、4つ上の兄の同級生で、遊び仲間のひとりだった母ちゃん(久美子)と知り合ったのもこの頃でした。
~「元気で明るい私でいなければ」と決心した子ども時代(くみこのこと)~
私は1972年に唐津で生まれました。父ちゃん(一也)と同じく、三姉妹の末っ子です。
8か月になった頃、ある事件がおきました。その日、母は庭で草むしりをしていて、赤ん坊の私は家の中で2人の姉と3人でした。突然、家の中から激しい泣き声が聞こえ、駆け付けた母の目に飛び込んだのは、熱湯を浴びて大泣きしている私…。部屋の隅に隠してあったポットを見つけた私が自分で倒してしまい、こぼれた熱湯が下半身にかかったようです。急いで病院に連れて行ったものの、私の右足には火傷の痕がケロイドとして太ももから足先まで残ってしまいました。床に寝かせようとすると痛がって泣くので、両親は3か月くらいの間、交替でずっと私を抱っこしていたそうです。
この「事件」で、私と一緒にいた一番上の姉は「あんたがちゃんと見ていなかったからだ」と母からひどく叱られ、母自身も後悔や罪悪感、やり場のない想いを抱えることになってしまいました。保育園の頃、私が火傷のことで男の子たちにからかわれていることを知ると、母はひどく心を痛め、それ以来、私の担任が替わるたび、「久美子はいじめられてないですか?」と聞くように・・・。子ども心にも母の気持ちがわかり、私は「お母さんに絶対、心配かけちゃいけない!」と思いました。この時、「いつも明るく元気で、親やみんなを笑わせる久美ちゃん」になろうと心に強く決めたのです。
そして、物心ついた頃から、私の足にあった火傷の痕。自分の中では「当たり前」のものだったので、気になっていない「つもり」でした。
でも、本当は…何気ない人からの言葉で傷つき、それに飲み込まれてしまうと、二度と立ち直れないような恐怖を感じていて…。でも、それを感じるともの凄く辛いから「無い事」にするため、過剰に強くて元気で明るいくみちゃんを続ける事が、自分自身の心を守る唯一の手段だったのかもしれません。なので、小・中学時代は「いつも明るく元気な久美ちゃん」としてクラスの中心にいたけれど、心の中では「人からどう思われるか」を過剰に気にしていました。
~いきなり、阿蘇の乗馬クラブに転職(くみこのこと)~
高校卒業後は就職してそれなりに楽しい毎日でしたが、なぜか心の奥には「私の本当の居場所はここじゃない…」という気持ちが消えず、いくつもの職場を転々としていました
そんなある日、通勤途中の満員電車の中で「私、何やってるんだろう…」と虚しさが湧いてきたんです。次にふと浮かんだのは、数日前に旅行雑誌で目にした阿蘇(熊本県)のウエスタン乗馬クラブのことでした。そこは仲間とツーリングに行った事がある場所。私は何かに取りつかれたように電車を降り、駅からそこに「働かせてください!」と電話をしていたんです。運のいいことにオーナーが唐津の人で、「面接に来なさい」と言ってくれ、私は面接の3日後には阿蘇に引っ越していました。21歳の時ですから、若さとはなんとも無謀なものですね(笑)。それまで心にあった虚しさはみじんも感じないくらい、阿蘇での毎日は楽しく、幸せでした。2年ほどが過ぎ、唐津に戻ってきた時に父ちゃん(一也)と付き合うことになり、子どもを授かったのを機に結婚しました。
~結婚、子育て、そして地獄の修業(夫婦のこと)~
19歳(一也)と24歳(久美子)で「授かり婚」をした私たち。それが「宮崎家の波乱万丈人生劇場・第1章(笑)」の幕開けでした。
長男が生まれる2か月前に親戚が経営する土木の会社に転職し、ようやく生活も安定してきた頃、父ちゃんがまた「俺、何しよるっちゃろ…」と言い出したんです。「このまま人生が終わっていくんだろうか…」。その気持ちは私にも痛いほどわかりました。そして、私自身、この頃にはある事がキッカケで、対人恐怖になっていて、唐津での生活も苦痛の日々。
一時期でも良いから、唐津という場所から離れたかった私もいました。そして、これからの人生について2人で真剣に話し合った時、父ちゃんが口にしたのは「自分たちで牧場(乗馬クラブ)をやるのはどうだろうか」という言葉でした。阿蘇での充実した暮らしを忘れられなかった私が「いつかはあんな乗馬クラブをやってみたい」と夢物語のようにたびたび話していたからでしょう。次男が生まれて間もない頃でしたが、私たちは幼い子ども二人を連れ、阿蘇で知人が経営する乗馬クラブに修業に行くことを決めたのです。
「3年後、唐津に自分たちの牧場を持つ」。そんな夢を描いて向かった阿蘇でしたが、そこには想像していた以上に苦しい生活が待っていました。修業として働かせてもらうので、父ちゃんのお給料は微々たるもの(最初の1年は無給)。私も近くのウエスタンショップにパートに出ましたが、2人の給料を合わせても、アパート代、光熱費を出すとほとんど残りません。食べることにも事欠き、やがて保育料も滞納するように。私たちは慣れない仕事や(金銭的にも時間的にも)余裕のない生活に追い詰められ、まだ幼い長男・次男を怒鳴りつけたり、手を上げたりするようになっていきました。
それでも、自分たちの牧場を持つことは私たちに残されたたった1つの希望だったので、どうしてもあきらめることはできず、「2003年5月2日に牧場をオープンする」と決め、阿蘇での修業と並行して唐津での準備を進めました。土地探し、地主との交渉、融資を受けるための事業計画書作り、土地の整備など…。とにかくお金がなかったので、何でも自分たちでやり、友人たちの手も借りてクラブハウス(建物)や馬場の柵なども造りました。この時ばかりは、父ちゃんの転職癖のおかげで身に付けていた様々な技術が本当に役に立ちました。
そしてこの時、本当に不思議な程、必要としていたものが手に入る、という経験をしました。
一番必要な土地から始まり、馬場の柵用の丸太200本、軽トラック、ユニットバス、流し台、足場板50枚、食器棚、テーブルセット等々、ここでは書き切れない程のものが抜群のタイミングで手に入り、それは今でもずっと続いています。この時は知る由もありませんでしたが、心理を学んでから「なぜか?」の理由を知る事となったのです。
~ここからが本当の苦労の始まり(夫婦のこと)~
2003年5月2日。念願かなって、地元の唐津に自分たちの牧場(乗馬クラブ)をオープン。父ちゃん26歳、私は30歳、長男7歳、次男5歳の時でした。
3年にわたる苦しい修業生活を乗り越え、ようやく手に入れた自分たちの城…。私たちは「やっとゴールした!」と安堵しましたが、実はそこからが本当の苦労の始まりだったのです。「宮崎家の波乱万丈人生劇場・第2章」スタートです(笑)
オープンして一段落した頃、小学校に入学したばかりの長男が学校に行き渋るようになりました。乗馬クラブを始めることだけを目標に走り続けた私たち。物心つく頃からそんな親を見てきた長男は、子ども心にずっと我慢していたのだと思います。私たちと同じように「乗馬クラブのオープン=ゴール」だと思い、もうそれ以上我慢を続けることができなくなったのでしょう。心理学を学んだ今ならそれがはっきりとわかりますが、当時の私たちには長男の気持ちなんて全然わかりませんでした。ようやく一段落したと同時に始まった長男の行き渋りに戸惑い、悩み、時には怒り、嫌がる長男を無理やり車から引きずり降ろして学校へ行かせていたのです。長男には本当に申し訳ないことをしたと思います。
それでも、私たちに立ち止まっている暇はありませんでした。「唐津で初めての観光牧場」ということもあって地元の人がどんどん来てくれ、休みの日ともなるとお客さんがひっきりなし。ただひたすらお客さんをさばくだけの日々に、私たちのストレスは溜まる一方で、激しい夫婦喧嘩はもちろん、子どもたちに当たり散らすことも再び多くなりました。
でも、3年も経つとお客さんは次第に減ってきて、今度は経済的に困窮するように。食べ盛りの息子たちに加え、馬にエサも与えなければなりません。食べるものにも困り、あまりにも生活が苦しくなった私たちが次に考えたのは、クラブハウスでランチを出すことでした。ボリュームたっぷりのランチは大当たりして、またお客さんがひっきりなしに来るようになりました。けれど、ランチの値段は500円(!)。どれだけ忙しく働いても利益はほとんど出ない…、でも生活のためには止められない…という悪循環でした。そんな日々が6年も続き、私たちはどんどん消耗していきました。その間に三男と四男が生まれていましたが、私たちにはゆっくり子育てに向き合う時間も心の余裕もなく、三男と四男は小学生だった長男と次男が育てたようなものです。
~それぞれの転機の時(夫婦のこと)~
2012~2013年は、私たち夫婦それぞれに大きな転機となった年でした。忙しいだけで利益の少ないランチに振り回され、疲弊しきっていた時、たまたま福岡で「NLP心理学」の連続講座が開かれることを知った私は、なぜか直感的に「これだ!」と思ったのです。
その頃、「乗馬クラブ」なのに乗馬よりもランチ目的のお客さんばかり増える中、父ちゃんも「このままでいいんだろうか」と悩んでいました。悩み抜いた父ちゃんが出したのは、「観光牧場ではなく、本格的に馬の調教を学び、競技乗馬を中心にやっていく」という答えでした。
いつものようにじっくりと夫婦で話し合い、私は心理学、父ちゃんは競技乗馬を始めることを決意。心理学と競技乗馬、一見バラバラに見えますよね?でも、私たちの中ではちゃんとつながっていました。私たちが最終的に目指していたのは、馬を介して人の心身を癒す「ホースセラピー」だったからです。再び、夫婦で目標を掲げ、自己投資のためにまた大きな借金を負うことになりました。
~心理学と出会い、心の扉が開く(くみこのこと)~
初めて触れた本格的な心の学び。それは私の世界を一変させました。
物心ついてからずっと感じていた「何やってんだろう。ここは自分の居場所じゃない」という空虚感、「今のままじゃダメだ。もっともっと頑張らなくちゃ」という焦燥感。そして、「なぜ、こんなに頑張ってもうまくいかないのだろう?」という疑問…。心理を学び、人が自分の心を守るために無意識で行っている「心のしくみ」を知ったことで、ずっとわからなかった人生の謎が解けたのです。私の心の扉がバンッと音を立て、大きく開いた瞬間でした。
それまでの私は嫌なことが起こるたびに「あの人が悪い。この環境が悪い」と人や環境のせいにしてきました。けれども、心のしくみを学んで「すべては自分の心が映し出していること=投影」だと知り、自分自身を理解すると同時に、他人を理解することができるようになってきたのです。さらにセラピストから個人セッションも受けるようになって、私の心は少しずつ変わり、それを反映するように私の人生も少しずつ楽になっていきました。
~父ちゃんも新しい学びで変化が(一也のこと)~
一方、競技乗馬を始めるために乗馬の技術や馬の調教を学んでいた父ちゃん。自分でも競技大会に出たりしていたのですが、そこでもまた壁にぶつかっていました。競技大会では異常に緊張してしまい、普段はできていることができなくなってしまうのです。焦れば焦るほど、結果は空回り…。大きな借金をしてまで仕事の方向転換を図ったのにうまくいかず、父ちゃんはとても焦っていました。そのストレスが口内炎、大腸炎、片頭痛、首凝り、寝違え、腰痛など・・・いつものように体にも表れていました。
そんな中、心理学を学び、個人セッションを受けて変わっていった私を見て、父ちゃんが「俺も受けてみたい」と言い出しました。ある男性セラピストから何度かセッションを受けるうちに、父ちゃんの心にも少しずつ変化が出てきたのです。
その男性セラピストは東洋医学にも詳しい方で、そこで父ちゃんは「未病」という言葉を知りました。「未病」とは、まだ明らかな病気ではないけれど、体に違和感や不調(肩凝り、頭痛、冷え、疲労感など)を覚えている状態のこと。それを放置しているといずれ本当の病気になってしまう、いわゆる「病気の芽」のようなものです。父ちゃんは自分が悩まされてきた不調がまさに「未病」だったと知り、それを放置していたことで様々な病気になっていたことにも気づきました。そこから「中医学(中国の伝統医学)」に興味を持ち、その道の大家である中村元鴻先生のもとで、本格的に気功や陰陽五行を学び始めたのでした。
~心理の仕事で一歩を踏み出す(くみこのこと)~
NLP心理学のプラクティショナーに続き、マスタープラクティショナーの資格を取った私は、さらにさまざまな心理学を学び、初級発達支援コーチ、魔法の質問キッズインストラクターという資格も取りました。私が心理を学んだ大きな理由のひとつに、「子育てにつまずいたと思い、悩んでいた自分のようなお母さんたちの役に立ちたい」という想いがあったからです。実は、NLPを学んで私の心が安定し始めた頃、小学1年生になっていた三男が学校へ行けなくなりました。長男の時と同じ状況です。でも、違っていたのは、私が心理を学び、「なぜ三男がそう表現してくれているのか?」を理解できるようになっていたこと。そして、この時期から、不登校の三男と一緒に親子で心の成長が始まっていたのです。
こうしていくつも資格を取ったものの、私の中には依然として「私なんかが心理の仕事をするなんて…」という気持ちが根強く残っていました。でも、我が家に迷っている余裕はありません(笑)。とても怖かったけど、2013年の末、ようやく最初の一歩を踏み出すことに。参加者7人の小さな講座(魔法のしつもん講座)でした。それから、多くの人に私のことや心理のことを知ってもらえるようにとブログも始めました。さらに、200人規模の自主映画上映会(映画「かみさまとのやくそく」)を企画したことがきっかけで、チラシを持って行った産婦人科のクリニックで産前産後のお母さんの心のケアをする仕事をさせてもらえるようにもなりました。それが信用につながったのか、子育てをテーマにした講演会や勉強会の講師としても呼ばれるようになったのです。
~ビリーフチェンジとの運命の出会い(くみこのこと)~
産婦人科で行っていたカウンセリングではお母さんたちからたくさんお話を聴き、「今、あなたの心で起きているのはこういうことですよ」と心のしくみをお話させてもらいました。すると、多くの人から返ってきたのは「じゃあ、私はどうすればいいんですか?」という言葉。私は「傾聴カウンセリングだけではなく、悩みを抱える人を問題解決に導けるようになりたい」と思うようになったのです。
やがて縁あって、私は心理療法家の棚田克彦先生が主宰する「ビリーフチェンジプロセラピスト養成協会」の扉を叩くことになりました。以前、福岡で開かれた入門講座に参加した時、ビリーフチェンジセラピーという心理療法のすごさと、棚田先生の「人としての在り方」「愛の深さ」に圧倒され、「もっと深く学びたい」と思ったのですが、当時はそんな金銭的な余裕がなく…。けれども、「クライアントさんの役に立ちたい」と本気で願った時、ここでも、思いもかけない形で必要なお金が入ってきたのです!そうして私はビリーフチェンジセラピーの「プロセラピスト養成講座」を受講できることになったのです。5か月にわたる講座中は、棚田先生や認定講師の先生方の深い愛情にたっぷりと触れ、一緒に学ぶ仲間たちとの温かい交流を味わった、とても幸せな時間でした。
~どんな人も愛のある尊い存在(くみこのこと)~
「クライアントさんのために」と学び始めたビリーフチェンジセラピーでしたが、一番癒され、救われ、変われたのは、他ならぬ私自身です。NLP心理学で心のしくみを知った時、幼少期の心の安全基地を作る事が、実はとても大切で、その時、親の関わり方で子どもの心の成長に、大きな影響を与える事を知りました。
なのに私は…。長男・次男には熊本での辛い修行時代と牧場オープンのために、たくさん我慢をさせ、余裕が無い時は怒りに任せてひどい事を言ったり、時には手をあげたり…。
三男・四男はといえば…。飲食店のランチで忙しく、ほぼ保育園と9歳、7歳上の長男・次男に面倒はまかせっきり。抱っこもろくにせず、寝かしつけや親子のふれ合いを殆どしてこなかった。私は何て酷い子育てをしてきたんだろう…。ダメな母親だ…。そう自分を責めていました。そして、その当時に知った「毒親」と言う言葉。なおさら私は大きな罪悪感を抱え、心理を知った事でかえって自分で自分を苦しめる事になったのです。
けれども、その後学んだビリーフチェンジセラピーは、「どんな親の中にも愛はある」という軸がブレることはありませんでした。「どんな人も、その時その瞬間最善を尽くしながら精一杯生きている尊い存在」だと認めることから始まるのです。生まれて初めて「すべてが愛である」という世界にふれ、それまで私の中にあった痛みや苦しみがどんどん癒されていきました。
やがてビリーフチェンジセラピーのセッションを『4C-RANCH』でも提供するようになり、ブログなどを通じて少しずつお客様が来てくださるようになりました。地元の唐津だけでなく、福岡などからも足を運んでくださる方やリピーターが増えたことで、私はようやくセラピストとしてやっていく自信を持つことができるようになったのです。
~父ちゃんもビリーフチェンジの道へ(一也のこと)~
陰陽五行や気功を学んだ父ちゃんとは、お互いの学びを交換するようにたくさんの話をしました。陰陽五行の中にある【魂の進化】という概念をビリーフチェンジに当てはめてみると、「人がどのように成長し、何のために生きるのか…」が手に取るようにわかったり、幼少期につくられたビリーフが知らず知らずに「生きるエネルギー(氣)」を奪い、体の不調や病気を作り出しているということも腑に落ちるようになりました。
2018年の春から夏にかけて、父ちゃんもビリーフチェンジセラピーの「プロセラピスト養成講座」を受講。講座内で講師の先生から最後のセッションを受けた時、父ちゃんの中で大きなビリーフチェンジが起きたそうです。その瞬間に立ち会った同期の仲間たちの笑顔と祝福の拍手に包まれ、新しく生まれ変わったような体験をすることができたと言います。
以来、父ちゃんはビリーフチェンジの学びを乗馬の方にも活かしています。つい先日のことですが、もう15年ほど通ってくれているお客様のレッスン中に父ちゃんがかけた言葉がその方の心の奥深くにあった未完了の感情に触れたようで、彼女は初めて自分の子ども時代の話をしてくれ、たくさんの涙を流していました。馬との触れ合いは、それ自体が気づきと癒しを与えてくれるのですが、そこにビリーフチェンジを学んだ父ちゃんが関わることで、心のより深いところへ届く「セラピー」となっているのです。
そして最後に現在の私たち家族のことを少し…。小学1年生で行き渋りをしていた長男は結婚して二児の父親となり、幸せな家庭をつくっています。次男は神奈川県へ就職し自立。1年生から不登校を繰り返していた三男は四男と元気に毎日学校へ行き、下校してからも遅くまで友達と楽しそうに遊んで帰ってきてます。
私たち夫婦が生まれてから今にいたるまでを語ったら、ずいぶんと長い物語になってしまいました。人生の前半は辛いことや苦労ばかりでしたが、40代になった今、私たちは毎日にささやかな幸せを感じながら生きています。
今までに起きたすべてのことは軌跡となり、これから起きる奇跡へとつながっている。そんなふうに思います。
宮崎一也・久美子